オゾネのあゆみ
1:小曽根のはじまり 〜本小曽根合資会社、設立前夜〜
●小曽根喜一郎の先見の明
明治維新とともに港が開かれた神戸。小曽根家は、産業の勃興とともに激変する神戸において、古くからの地元の名士の一人として社会的・経済的な発展の一助となるべく、これまで多角的な事業投資や不動産投資を行ってきました。
明治維新後の経済変動の余波は神戸にも大きな影響をもたらし、時代の大変革を立身出世の絶好の機会と捉える者や、不安におののき、先祖伝来の土地や家を売り払ってこの地を離れる者も多く現れました。荒い騰落に持ちこたえられなくなった人々が土地や家屋を投げ売りする中、酒樽製造や金融業、貸家業を営みながら質素倹約に努めてきた小曽根家は、蓄えた資金を用いてここが好機と不動産に投資。やがて貿易港として拓けていく神戸港とともに街の近代化も一気に進むと、転じて急激な人口流入が起こり、土地や住宅の価格も上昇していきました。たちどころに小曽根家の不動産資本は拡大し、神戸の産業発展に寄与していくための礎が築かれました。
さらに、「たとえ巨大な利益を得る事業でも、国家・社会の繁栄に寄与しないものには手を出さない」という信念のもと、明治後期には土地所有を基盤としながら鉄道や金融、繊維、造船といった事業投資にも積極的に参画していき、神戸の産業発展に力を注ぎました。携わった多くの企業は名称を変えながらも現在も事業を継続しています。時流の読みだけでなく、将来性があり世間に貢献する堅実な事業を見極めることができた目利きは、金融・貸家業者として古くから神戸で事業を営んできた賜物でした。しかし、それは志高い起業家や阪神地方の財界人との連携なしには成し得ない取り組みだといえるでしょう。
南北朝時代、官軍に味方し、小曽根縅(おぞねおどし)の甲冑を身につけて活躍したことから、後醍醐天皇から賜ったと伝えられる小曽根姓。この小曽根の名が、土地資本から産業資本へと軸足を移しつつ投資を行った小曽根喜一郎によって、のちに関西の財界で広く知れわたり、無くてはならない存在となっていったのです。
●地域貢献を目的とした事業への参画
企業への投資を行う傍ら、喜一郎は地元神戸に貢献すべく社会事業にも積極的に携わっていきました。
神戸市内を流れる湊川は、1901年「湊川の付け替え」が完了するまで湊川公園から新開地を通り、市街地を東西に分断する天井川でした。昔から水災が多く、流出土砂が神戸港を埋没させ、また大雨の度に氾濫していました。世論にも後押しされ、小曽根喜一郎は湊川を苅藻川と合流させるため湊川隧道を建設する一大プロジェクトに参画。実業家・大倉喜八郎らと1897年(明治30)に湊川改修(株)を設立させました。3年9か月に及ぶ大工事となりましたが、後に「湊川隧道」と呼ばれる日本初の河川トンネルが誕生し、湊川の付け替えが行われました。この湊川の付け替えは水災リスクが低減した他、兵庫と神戸を繋ぐ東西交通の利便性が向上するなど社会基盤の強靭化に大いに貢献できたものとなりました。また、河川敷跡に新たな街が形成され、それは新開地として神戸随一の繁華街として栄えるなど副次的な効果ももたらしました。
また、小曽根喜一郎は社会事業として兵庫区楠木町に育児院・施療院を設置しています。輝かしく発展を遂げる神戸にも景気の好不況の波が激しく押し寄せ、それに翻弄された失業者の群れは街に暗い影を落としました。当時は行政による社会福祉の施策が期待できない状況だったと評される中、行路病者や困窮する老幼者を救済する慈善事業が社会的に求められました。1890年(明治23)、元幕臣で思想家、剣や書の達人としても知られる山岡鉄舟の社会事業に賛同した目加田栄と小曽根喜一郎は社会福祉施設「神戸報国義会」を創設。喜一郎は当初から幹事長を務め、貧民救済事業に携わることになりました。
食べるものに困る子どもや親のいない子どもの保護・養育を行う育児院(後の児童福祉法の児童福祉施設)と、病に苦しむ年寄りから子どもまでの診療を行う施療院(後の生活保護法保護施設)から始まった救済事業は、セーフティーネットを拡大していき、1941年には年間延べ9万人、1日平均250人の困窮者を助けた記録が神戸市役所に残っています。
事業開始100周年を迎えた1992年(平成4)に社会福祉法人「神戸光有会」に改称。神戸市から行路病人の救護・収容を嘱託された創設当時のようなセーフティーネットとしての役割は、現在も何ら変わりません。小曽根家は代々、会の実質的な運営は専門家に一任し、あくまでも金融面や社会面での支援に徹してきました。現在は喜一郎から5代目にあたる佳生にバトンは託されており、今の社会で求められる役割を担いつつ、支援を続けていく決意を新たにしています。
2:新たな時代を予感 〜大正から昭和初期の成長〜
●経営者、投資家としての小曽根貞松
1918年(大正7)、発動機を製造する(株)阪神鐵工所(現阪神内燃機工業)を設立し、喜一郎の長男・小曽根貞松(たけまつ)が初代取締役社長に就任しました。さらに1921年(大正10)、小曽根家の資産管理や運用、事業投資を行うため「本小曽根合資会社」を資本金500万円で設立し、貞松が代表社員に就任。現在の(株)オゾネの歴史はここから始まります。
貞松は、父・喜一郎の投資事業を引き継ぐとともに、特に阪神鐵工所や(株)神戸電機製作所などの重工業、さらに神戸瓦斯(株)など産業勃興の基盤となる事業に携わり、地元神戸や兵庫の発展に大きく寄与しました。他にも阪神電気鉄道(株)、(株)オリエンタルホテル、ベルベット石鹸(株)などの社長を務めました。
関東大震災(1923年:大正12年)や昭和恐慌(1930年:昭和5年)などがあり、日本の経済界に何度か激震が走った時代ではありましたが、貞松自身は阪神鐵工所や神戸瓦斯の経営に重きをおき、小曽根家が代々築いてきた地元有力者や実業家とのつながりを活かし、先頭に立って事業拡大に取り組みました。
3:混乱期を乗り越えて 〜戦中戦後、高度成長期を経て〜
●小曽根真造の尽力
1937年(昭和12)に勃発した日中戦争あたりから次第に日本を戦時色が覆いはじめ、自由な産業活動が困難になっていきました。貞松の長女・蕗子の婿養子となっていた小曽根真造が、太平洋戦争真っ只中の1944年(昭和19)、阪神鐵工所の取締役社長に就任。さらに1946年(昭和21)には本小曽根合資会社の代表社員にも就任し、阪神鐵工所と小曽根家の戦後の難しい舵取りを担うことになります。
真造は名古屋の資産家の四男として生まれました。小曽根家に入ってから阪神鐵工所に入社し、爆撃による被災、戦後の資材不足やインフレ、労働争議などの混乱を乗り越えて株式上場を果たし、企業としての盤石な体制を構築しました。1956年(昭和31)経済白書の「もはや戦後ではない」の言葉通り、高度成長期へと移行していった日本。厳しい状況を克服した真造は、阪神鐵工所の経営に携わりながら、他にも多数の企業の役員を務めました。
4:時代に呼応する企業経営を 〜阪神淡路大震災を乗り越えて〜
●小曽根有の奮闘、苦境からの復活
1974年(昭和49)、真造は30年間務めた阪神内燃機工業㈱(阪神鐵工所を改称)社長を退任し、本小曽根合資会社の経営も長男・有(たもつ)に託し、ビジネスの第一線から退きました。
有は、本小曽根合資会社の不動産事業の一環として空調設備を扱っていた多聞商事(株)(1965年設立)を1982年(昭和57)に併合し、「株式会社オゾネ」に改組改称しました。しかしながら1995年(平成7)1月、阪神淡路大震災が発生。不動産事業の中核物件が全壊し、創業以来の苦境に立たされることになりました。
その後も有は堅実に事業を継続。「入居することでメリットのある空間」としてテナントの立場に立つ経営をコンセプトに商業施設や賃貸マンションを建設し、地元の皆さまの暮らしに貢献することを目指しています。代々所有する神戸市内の不動産は売買を目的とせず、不動産賃貸を行なってきました。今後も景気の動向に左右されないオゾネの基軸事業として展開していきます。
●小売業に進出、“神戸らしさ”を追求
2012年(平成24)、神戸・岡本にインテリア雑貨ショップ「OZ SELECT」(オーゼットセレクト)をオープン。量産品には見られない、デザインや品質に優れた“神戸らしさ”を求め、国内外からセレクトしたお洒落で身近な雑貨を扱っています。神戸の街に愛着のあるオゾネならではのハイセンスなこだわりをお客様に体現していただけるお店です。
●小曽根佳生への継承、新展開の保険代理業
喜一郎は水産業や造船業に投資したことから、船舶の保険業にも関わってきました。現在のあいおいニッセイ同和損害保険(株)の源流にあたる神戸海上運送火災保険(株)と朝日海上火災保険(株)の設立に尽力しています。以来、保険業の根幹である長期的な視野を持って損害保険代理業を展開。2016年(平成28)には有の長男・佳生がオゾネの経営を引き継ぎ、新たに生命保険媒介業の認可を取得。これまで以上にお客様のご要望にお応えできる体制を整えました。長年にわたり培ってきたノウハウや経験を生命保険部門でも活かし、保険分野においても地元への貢献という役割を果たしていきます。